2016年02月28日

1 諸説の検証結果

李承晩ライン宣言の目的に関する諸説について検証を試みたところ、いずれの説も疑問が残ることを指摘しました。
 第1に、漁業資源保護のためとの説については、漁業問題の主体は以西漁業であり、漁業保護を目的として商工部が作成した「領海外の保護管轄権設定区域」には竹島は含まれていなかったこと、「領海外の保護管轄権設定区域」作成に当たっては、日本が保有していた黄海南部の漁場図が決定的に重要であったこと等から、竹島と漁業問題は無関係であることを指摘しました。
 第2に、外交的敗北の挽回(正義の実現)のためとの説については、「ヴァン・フリート極東使節団による報告書」によれば、一方的な領海宣言(李承晩ライン宣言)は違法であると結論付けられていること、領土問題に関する韓国政府の対応は場当たり的であり、米国に対する要求の信憑性を欠き、結果として外交的敗北を喫しており、そこには一貫して「正義」を主張した形跡は見られないこと、高度な知識や合理的思考を兼ね備えた李承晩大統領が米国との対立という大きなリスクを冒してまで得ようとしたものが「正義」というあいまいなものであるとは考えにくく、李承晩大統領の念頭には何か大きなリターンがあった可能性が高いことを指摘しました。
 第3に、日韓交渉を有利に進めるためとの説については、竹島を含む李承晩ライン宣言案を作成したのは日韓予備会談より約2か月前の1951年8月25日であると思われ、時期的に矛盾していることを指摘しました。
 第4に、李承晩政権への国民の非難が高まったため対日関係を悪化させて関心を外に向け、政権の維持・延長を図るためとの説については、政権打倒を目的とした大規模な国民運動等が行われた形跡は見当たらないため政権が危機的な状況にあったとは言えず、仮にそのような国民運動等が行われたとしても共産主義者として弾圧されることが明らかであり、国民の非難や抵抗が李承晩政権に大きな影響を与えることができるのは、大統領直選制のもとで行われる第2代大統領選挙だけであったことを指摘しました。

2 窮地に陥っていた李承晩大統領

 李承晩ライン宣言当時の韓国情勢を概観するとともに李承晩の人物評価を行い、当時の李承晩大統領は窮地に陥っていたことを明らかにしました。
 第1に、マッカーサー連合軍最高司令官の解任及び休戦協議の開始により、李承晩政権の大きな柱であった北進統一は暗礁に乗り上げており、国民団結の柱が揺らぎ、李承晩大統領のカリスマ性の低下を招く恐れがありました。
 第2に、サンフランシスコ講和条約締結に向け、韓国政府は国益を賭けて米国と事前調整を行いましたが、韓国の要求は米国にことごとく棄却され、外交的敗北を喫し、外交で成果を挙げることに重点を置いていた李承晩大統領にとって大きな痛手となりました。
 第3に、李承晩派が占める議会の議席数は過半数を大きく割っており、1952年6月の第2代大統領選挙では再選が絶望的であり、このままでは権力の座から転落するとともに、大統領在職中に行った弾圧・虐殺を理由に刑事上の訴追を受ける可能性もありました。
 第4に、共産主義者等を容赦なく弾圧する独裁政治や国民防衛軍事件への李承晩大統領の関与等、様々な国内問題を抱えて国民の不信を招いていました。
 
 以上のような窮地にありながらも、李承晩大統領は反共による朝鮮半島統一を実現し、自己の権力欲を満たし、訴追や政治的混乱を回避し、将来韓国を思うがままに牛耳ろうとする米国の意図を破砕するためには、絶対に大統領再選を果たさねばならなかったのです。

3 反日の利用
 
 李承晩大統領は、韓国が日本に再度飲み込まれることを危惧はしていましたが、李承晩ライン宣言以前には反日施策を行っておらず、決して強烈な反日ではありませんでした。
 しかし、李承晩ライン宣言を機に対日強硬姿勢を打ち出し、韓国民の支持獲得に利用しました。
 この背景として、第1に、朝鮮解放後、韓国国内では急速に反日が高まったが、これは李承晩を筆頭とする右派勢力の排除・弱体化を狙って左派勢力(共産主義勢力)が主導したこと、第2に、左派勢力が反日を推し進めたこと等により韓国民に反日感情が増幅されていったこと、第3に、李承晩大統領は反民族行為処罰法に反対し、政権運営基盤を支えている親日派を擁護しており、韓国民は李承晩大統領に親日疑惑を抱いていたことが挙げられます。
 李承晩ライン宣言は、韓国大統領が任期間近に低下した支持の回復を狙って行う反日パフォーマンスの起源となったと思われます。

4 李承晩大統領の再選
 
 朝鮮戦争の休戦協議が開始され、安全保障上の難局を乗り越えた1951年8月頃、窮地に陥っていた李承晩大統領は第2代大統領選挙に向けた戦略を立て、8月15日の光復節の演説でそれを示していた。そこには李承晩ライン宣言を暗示する内容も含まれており、その演説直後に李承晩ライン案が策定されていました。1951年8月の光復節の演説から1952年8月の第2代大統領選挙までの間の李承晩大統領の動向や韓国国内における大規模な集会やデモ等を確認すると、その原動力は「李承晩大統領の再選」にあることが明らかであり、また、李承晩大統領は、釜山政治波動により議会政治を圧殺し、民主主義を蹂躙するという強硬手段を用いるほど大統領再選に強い執念を持っており、李承晩ライン宣言はそのような大きな流れの中で行われたとみるのが妥当と思われます。竹島を含む海域に主権を宣言するという対日強硬姿勢を突如打ち出し、反日姿勢をアピールにした李承晩大統領は、親日疑惑を払しょくするとともに国民の熱狂的な支持を受けてカリスマ性を増幅することに成功し、第2代大統領直接選挙で圧勝しました。
 権力の維持を最優先とし、目的達成のためには手段を選ばない李承晩大統領が、米国による李承晩大統領排除の動きが強まる中、米国との摩擦という大きなリスクを冒し、大統領再選という大きなリターンを求めたことは十分にあり得ると考えます。

 以上のことから、竹島を含めた李承晩ラインを宣言した目的は、当時窮地に陥っていた李承晩大統領が反日を利用して大統領再選を果たすためであったとの結論に至りました。


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